ものごとはいろんな視点から眺めなければいけませんよと最初に諭されたのは、はて、いつだったろう。統計によれば青少年の凶悪犯罪はむしろ減少しており、自殺者の増加は中高年層だという。原因は不況やリストラと明確なのだから 対処すればふせげるはず、昨今の若者のネット自殺は単にイメージ先行で悪目立ちしてるだけ、とか。二十代後半から三十代初めまで(ネット自殺者には)いるのだから、今日、 青年期も長くなったものだ。この先ずっと今と同じ状態が続くのが苦しくてと書き遺した大学生に、凡庸に生きるありがたさが分からぬとは、と喝破した知識人がいたけれど、 冷たいなとボソリと思った。

数が多かろうと少なかろうとネット自殺に反応してしまうのは練炭による酸化炭素中毒死から連想する、息苦しさにあるのだろうか。なんで若い人が逝き急ぐのかねと紙面に視線を落としながらつぶやいたら、「それはなにか、閉塞感があるからでしょうね」という返事が卓上向こうから戻ってきた。

石川啄木が明治43年に著した「時代閉塞の現状」。

我々青年を囲繞する(=取り囲む)空気は、今やもう少しも流動しなくなった。強権の勢力はあまねく国内に行きわたっている。現代社会組織はそのすみずみまで発達している。そうしてその発達がもはや完成に近い程度まで進んでいることは、 その制度の有する欠陥の日、一日明白になっていることによって知ることができる。 


宮台真司がその著作『まぼろしの郊外──成熟社会を生きる若者たちの行方』や『終わりなき日常を生きろ』を通して、繰り返し提言してきたこと。我々は近代後期という近代システムの成熟期に生きている。近代が約束し続けた拡張や変革はもはや、ない。とはいえ、どっぷり近代システムの恩恵につかっている自身と、 欠陥が明白でも替わりのシステムが見当たらないないことを認識して(宮台の言うところのしっかり絶望して)、近代後期=終わらない日常を、欠落を抱えたまま生き抜くこと。スッキリしない世界、何が良いのか悪いのか自明でない世界のなかで相対的に生きる知恵=自分に損にならず他人にも危害を与えない、共生のためのスキルが必要である。村上春樹の『海辺のカフカ』、体鍛えたり、料理を丁寧につくったり、母的なるもので癒される程度の<絶望>に易々と同調するな、もっとしっかり絶望せよ!

冒頭の知識人の喝破と宮台の言うところは、似てるようで違う。 絶望と共感の深みが前者には感じられないという点でも。前置きが長くなったけれど、山田大輔の作品「言葉たちと獰猛な世界」(1998)「卑劣に、政治的に」(2000)の見直しも、やはりここから始めねばならない。

これらの作品は現在のところビデオテープによる映像作品として提示される。(「言葉たちと獰猛な世界」などは70分近い長尺。12か月という区切りを用いた、一見、写真によるダイアリーをスライド・プロジェクションふうに構成しているともみえる。) どちらも主たるイメージはがんこなまでに繰り返される(山田の糧らしき)食事、汚れた公衆トイレ、路上の吐瀉物、路上の死骸(ぺしゃんこにされた猫や小鳥、蛙、昆虫)。これらに時折、 叙情的に挿入される(眼の端を流れるような)一片の空、街景。

特筆すべきはこうした視覚世界に注入される<テキスト>の世界である。 山田の精神を支えている日々の読書、その書物のページを撮った写真が多々登場する。山田が引いた傍線や書き込みと共に。あるいは路上で拾った恋文、電柱の落書き(「死ね! 学校来るな」)や違法チラシ、看板の類。マンションのエレベーター横に貼られた威嚇的な張り紙。偏執めいた新聞勧誘拒否の警告文とその上に書きなぐった落書き(「バカ」)。 街頭の怪しげな告発文。重ね貼りされ、ところどころ破れて読み違えを誘う広告。エロビデオの投げ込みチラシ。新聞の見出し。ワイドショーを放映するテレビ画面のテロップ。路上に落ちていたエロ漫画のちぎれたページ・・・

日々繰り返されるヒトの食欲、排泄欲、性欲。(食べ残しにねじ込まれた 煙草の吸殻、まるで食べるという行為を憎むように。)食べたものは翌朝、路上に無残に吐瀉され汚物になる。小さな生き物たち の亡骸と共に。日常にまぎれこんだ様々な言葉たち。ときにそれはじわじわと首を締めにかかる「世間」として迫ってくる。一方、書物に封印された言葉たちはヒトの精神を高みへ昂揚へと誘う。たとえ後者であれ、言葉たちの本質の、いかに獰猛なことか。中上健次を引用して書物の余白に山田は書きつける。 花鳥風月とは獰猛な世界である、と。美も文学も、山田は安易な慰撫を拒否し、肌の粟立つ獰猛さを採ることに、身の置き所を見出そうとする。

山田の作品にユーモアの資質を感じると言うと、個人的に彼を知る人は大抵、 けげんな表情を浮かべるけれど、わたしの言うユーモアとは吉本喜劇のそれではなくて、14世紀の英国詩人チョーサーの『カンタベリ物語』のそれ、 痛烈な批判精神とアイロニーに裏打ちされた、humorの本来の概念による。実は、ヒトに能動的に読まれなければ立ち上がってこない言葉たちを象徴するように、画面にテキストが映じられるときは、初期のコンピュータの読み上げソフトを用い、テクストが無機的な男性の声で朗読される。ときどき調子が はずれるその音声が、生理的拒否感を招きかねない吐瀉物や汚物の写真をふっと受け取ってみせて、山田の冴えを感じるところでもある。

「写真が面白くない」という、まれに聞こえるこれら作品への批判は、作品の構造の面白さや本質を見逃していると思うし、山田の詩人としてのセンスも黙殺しようとするものだろう。ここでいうわたしの<詩>とは単にテキストが用いられているから、ではなく、以前に「写真感情」でも述べたインターメディア、視覚芸術であると同時に詩である、という定義での<詩>であるけれど。

「言葉たちと獰猛な世界」とは、閉塞感をます世界=日常と絶えず対決しながら、<作家>としての己の矜持を持とうと苦闘する、孤独な精神の記録であった。 そのエッセンスを20分弱に凝縮、先鋭化した作品「卑劣に、政治的に」の中で山田は<テキスト>を用いてこう表明する。想像力を駆使することを禁止されている写真家の武器は、飢えた心、ただ飢えた心のみである、と。*1

これらの作品は9.11以前に制作された。(今後は、イラク侵略以前の、という修飾も有効となるだろう。) 何でもありの、ますます不透明な世界、この近代後期に<作家>として生きるとはどういうことか?果たして可能なのか。 <個人><自己><表現><作家>とは近代以後に発見された概念 ──相対よりも絶対を希求してやまぬもの──であり、冒頭で述べたとおり、 それらがもはや有効でも<絶対>的とも思えない、今・・・?


*1  柄谷行人のテキストから「やはり小説家の武器は、飢えた心と、想像力である、と。」を引用した後に、「原理的に想像力を駆使することを禁止されている写真家の武器は<飢えた心>のみとなる。やはり写真家の武器は、飢えた心、ただ飢えた心のみである、と。」と続く