― 前半 ―
〜インターメディアの美学2002〜


現代美術の領域では最近、言葉や音を扱った作家に関心が集まる傾向のようで、NYでは音専門の現代美術画廊があるようだし( diapason )、海を越えての企画展もあれこれ催されている。ここに二、三、ペイストしておきますので関心のある方はどうぞご覧あれ。
・Fluxus - Festival Internacional de Cinema na Internet
・VORTICE ARGENTINA : 5th International Meeting of Experimental, Sound and Visual ) 国書刊行会からは生誕百年を記念して北園克衛のプラスチック・ポエム集が発刊されるし、そう言えば、pgでも音楽ユニット、キキとのスライド・セッションやら、小説家の朗読との共演をやってます。

畏友、浅井隆が主催するアップリンク・ファクトリーでは、クラブ・シーンでVJとしてすでに著名な高木正勝の映像作品を上映している。DJならぬVJ。ノートパソコンとシンプルなキーボードなど操りながらクラブのスクリーンに映像を、もちろん音楽とともにパフォーミングするのだが、こういうのをビデオ・インプロヴィゼーションって言うんだな! ほら、photo eyesの掲示板でも最近載ってましたね。(10月18日No.1171)それで、かの高木正勝は東京都現代美術館の「MOTアニュアル」にも出展するらしい。( takagi masakatsu

半年ほど前に、浅井さんから、すごい才能だよと教えられたとき、高木くんの他にも、デザイナーで音楽もやるひとが増えていて、彼らは必ずしも従来の音楽や美術や映像の知識の蓄積がなくても、デジタル化した素材をpcで巧みに、かつ感性豊かに処理して作品をつくる、音楽から映像、映像から音楽への移行も、素材の処理の問題だけで、こだわりなく、難なくやってのける、その発想の出どころは、我々のような音楽やりたい、映像やりたい、から始まった旧世代 (!?) とはおのずと違ってくる・・・みたいな話になった。

最後の部分はともかく、確かに昨今の、美術/音楽/言葉のボーダレス化の背後には、pcの飛躍的進化と普及が関与しているのは間違いないだろう。pcに取り込む前の/ための、raw な素材への関心、あるいは、素材へのそうした身のほどこし方が自然にできあがって、ふと気がつくと、4、50年前に似たようなことをやっている先人がいるではないかと再評価が若い世代から出てきた。まずは音楽から火がついたのがミュージック・コンクレートであり音響詩であり、さらに具体詩(ポエジー・コンクレート)、視覚詩(ヴィジュアル・ポエトリー)、フルクサスまで・・と波状的に広がってきたのではなかろーか? 折りしも美術館や美術史家にとっても、かつての評価しづらい「前衛」がほどよく時を経て、扱いやすく(なんたって作家が冥界入りしだしている)なり、美術の殿堂入りのお墨つきを発行しだしたことも追い風になっているような。

ここでいうコンクレート、とは<具象物、素材への注目>という意味で、文字やシラブルに還元された言葉や、音楽以前の音やノイズといった、マテリアルに注目するアイデアにあたる。先に名を挙げた詩人北園克衛などは世界的にもポエジー・コンクレートを代表する作家で、最終的に写真を素材とする作品を制作した。写真をコラージュした後、それを撮影してプリント、作品化しているが、この分野に詳しいメール・アーチストの中村惠一さん(彼は最近、欧州や南米から依頼が殺到して精力 的に作品を制作している作家である。メール・アートもひと昔前からのジャンルだが、最近の関心の背後には、やはりpcのメールがある?) によれば、コンクレートよりもっと柔らかいイメージなので、プラスチック・ポエムと、その筋では呼び分けられているらしいが、その筋の間でも 明解な線引きはなく、例えばヴィジュアル・ポエトリーの広義の意味が<視覚的言語を用いた新しいタイプのコミュニケーションの試み>で あるなら、ゴダールの映像も、ソフィ・カルの一連の仕事も視覚詩と言ってしまえるようにも思う。(バーバラ・クルーガーやジェニー・ホルツァー、ジョン・バルデッサリやベッヒャー夫妻の作品だってこちら側から見ることも可能なような・・)そう言えば、先にpgにて私が企画しましたトヨダ・ヒトシのスライド・ショーでもなにげにヴィジュアル・ポエトリー、と謳っておりました。

詩人、コンポーザー、そして出版人としてフルクサス関係の書籍を多数出版したディック・ヒギンズによると「インターメディアはミクスト・メディアとは異なる。インターメディアにおいては概念の融合がある。具体詩やその他の視覚詩はインターメディアである。それらは文学と視覚芸術の間にあり、その間には融合があるので、われわれはその源泉ひとつだけを扱うことはできず、視覚的でしかも文学的な芸術としてその作品を扱わねばならない。(例えば)歌曲はテクストと音楽をもつ。それはミクスト・メディアである。しかし音響詩は、詩としての核心そのものに浸透する音楽を、あるいは聴覚体験の真髄におかれた文学をもっている。したがってそれは、インターメディアである。」

なるほど。小説家の朗読をスライド・プロジェクションにかぶせるのではミクスト・メディアにすぎないわけだ。(そういう意味ではかつてのナン・ゴ ールディンのスライド・プロジェクションなども微妙だが、かつてMOMAで実際に見た経験では、文学と視覚芸術の間の融合を感じたなあ。)とまれ、この文章がまとめられたのは60年代で、いつもながら、やるもんだなの国書刊行会から「インターメディアの詩学」として刊行されてます。温故知新。そう言えば、NYの音専門の現代美術画廊 Diapason の謳い文句も、gallery for sound and intermedia でした。

そしてここで、はたと膝をうつのが、我ながらどうして斯くも山田大輔の一連の作品にひっかかるのかというと、彼の作品に、「その源泉ひとつだけを扱うことはできない」文学と視覚芸術の融合を感じてしまうから、ということで、やっとタイトルの始めに行きついたところで以下後編デス。