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でも別れてからーーいろいろ考え出したらーー 物事が意味をもちはじめた。 ジャン=リュック・ゴダール 「愛の世紀」より 思うにあの頃のわたしは、まったくもって準備ができてない奴だった。マスター・オブ・フォトグラフィー、濱谷浩の担当編集者だった頃の話である。準備ができてなければ、たとえ目の前に黄金の魚がさしだされても、ひょいと猫またぎしてしまうものだ。愚かなことである。足かけ十年のNY滞在をへて、そのことを理解し、帰国後に先生に手紙をさしあげ大磯にうかがった。先生は病床にあったが、わたしを一瞥されると眼に力が戻った(ように思う)。そして最初に言われた言葉がこうだった。あれが、最後だったね・・・ 「PHOTO JAPON」という、今では知る人も少なくなってきた 写真雑誌で、濱谷浩の聞きがきをまじえながらその作品を回顧 するという企画が上司から降りてきて、ベテランのフリー・ライター小田豊二さんと毎月、東京駅から東海道線に乗って大磯まいりをしていた。大胆さと繊細さを持ちあわせた小田さんを先生はとにかく気に入っていて(小田さんは最近も故三木のり平の聞きがきを出版されるなど、今は作家になられている)、まだ何ものにも染まってないだけが取り柄だったわたしとの、でこぼこコンビの来訪を楽しみにしてくださっていた。世間的には神格化され畏れられていた方だったのだが。連載の最後には先生が敗戦の日の太陽を撮った高田や、つくばの科学博を取材旅行している。実際はその後も大きな回顧展などの「仕事」をされているが、グラフ・ジャーナリズムとともに写 真があった世代の作家として、雑誌で撮りおろしの取材をした、あれが最後の仕事だった・・と先生は考えておられたようだ。そういう意味ではわたしは最後の濱谷浩番担当編集者だったことになる。
手をさしのべても、準備ができていない相手では、その手は拒絶され、行き場を失う。そのもの足りなさ、寂しさを、別 の局面で自らが体験した後に、やっと、過去の自分を振り返ることができたのである。 ひとりの編集者として、もっと力量 があったなら、とも思う。アンドレ・ ケルテスは最晩年にも(部屋の中や窓越しに撮っただけで)よい仕事を残している。「雪国」でみせた科学的な視点のクールさと、その さえざえとした境地が生みだした奇跡のような抒情、民俗学の分野 で写真は非常に面白いことができるような直感が(今も)わたしには あって、濱谷浩に、もう一度そのジャンルに挑戦してほしかった。これはあながち夢物語ではなかったのだ。手紙に民俗学への興味をした ためたせいだろうか、先生は唐突に地図を出されて、ここに行ってみたい、と震える指で示されたのだから。しかしわたしは最後の最後まで愚かだった。小田さんと共に先生を訪ね、翌月、先生の主催でこじんまりした内輪の会食会に招かれたあと、年末年始の慌しさに連絡を怠っているうちに先生は亡くなられた。会食会の折、馴染みの方々が先生のそばにおられたこともあって、わたしと小田さんは遠慮がちにして、先生と言葉をさほど交わさなかった。またゆっくりお訪ねしよう、と考えていた。眼があったとき、先生がうんうんと、満足そうにうなづかれたのを覚えている。その会食会の翌日から先生は食べることを拒否された、と聞いている。なんとか食べていただきたいという身近な方々の努力もむなしく、先生は衰弱され、結果的には肺炎で亡くなったが、わたし自身はあるかたちでの自死と考えている。 見るべきほどのことは見つ、というような心境であられたようだし、醜さを増す一方の日本と日本人に、ある種、絶望感を抱かれていたのはうすうす感じていた。自分は二十世紀で十分と思われたのだろうか。(先生は1999年のご自身の誕生月に亡くなられた。) 先生のためなら火の中、水の中・・といった様子の職人さんがかつて出入りしていたのに、姿がないので秘書の方に伺ったところ、先生の財産なんて皆で使ってしまおう、みたいな言動があり、出入り差し止めになったという。お子さまがおられなかった先生の晩年にはこうした思惑の人々も集まり、先生は孤独を深められたようだ。先生は死後、著作権を二十数年にわたり封印されている。 ある種の義憤にかられた秘書の方から、わたしは先生が残された遺言(?)テープ録音を聞かされている。ぼくは裏切られた。でも男の約束だから、土地はやる・・みたいな内容が淡々とした口調で語られていた。とんちんかんな感想だが、根っからの東京人だった先生の、身売りさせた我が娘の代金五十両なのに身投げしようとした丁稚にぽーんとくれてやった、落語にでてくるような江戸っ子かたぎ、とでも言おうか、もう、面倒くさいから、これでいい、みたいな印象を感じた。自分の作品の真の評価は、ほっておいても時間がしてくれる、みたいな自信もあっただろう。 わたしの内的時間には、今も濱谷浩は存在している。先生のあの時、
あの場での所作を思い出し、今なお、いろいろ考えている。とりわけ引き際の処し方については、ある手本を示されたようにさえ思う。そのことを、もっと深く、しみじみと理解する時がいずれ来るのだろう。ときどきつぶやいてみる。 |