すこしでも触れるとアッとくずれかねないように前傾した上半身。嗚咽0.5秒前の表情は鼻先も赤くて、醜いのになんて綺麗なんだろう。毛糸の、ださかわいいセーターの ピンクと黄色とグリーンが、背景に映りこんだ、台所のピンクのビニールカーテンや蛍光灯の光で黄色とグリーンに滲んだ湯沸かし器と呼応していて、映像的にも惹きつけられる。 このショットが表紙になった神蔵美子の写真集「たまもの」*1を紙上の書評欄で見たときも、書店の店先でも、迷わず購入しようと思った。最近は本を買う際、「ほんとにこれが欲しい?」と三回はお唱えする私としては、異例の事態である。

実際にはこの写真を撮ったのは、作家ではなく、不倫中の、後に夫となるコイビトと知って、なんなんだよ〜とは思ったものの、結局、この写真集に写された人々や事象すべてが、作家の存在が生みだした関係性の中で息づいており、それをアートと呼んでしまっていいのだ、愛について物語るこの写真集は、作家自身をも対象化したドキュメントであると考えれば、すべては肯定される。

自分の存在をかけて作品をつくっている、そんなふうに感じさせる作家はなぜか日本には少ない。作家の思想や人生から切り離されたところで手際よくデザインされた、工業製品みたいな作品をつくりつづける作家が多い気がする。

一度でもディープな、それこそ自分の存在をかけた恋愛に、はまった経験があるものには、もうたまんない写真の連続だ。泣きはらしてはれぼったい眼で虚空を見る自分(ツライ恋ニ酔ッテイル・・)、流しっぱなしの蛇口から流れ出る水(エロス?)をぼんやり見ている自分、ことが終わったあとのどこかせつないコイビトの背中、エクスタシーにそりかえる足の指のそばでもつれる抜け毛、逢引のホテルのサイドテーブルの無機質さ、ナニモカモ許シナサイ、オノレヲモ、マタと語りかけるように咲く桜・・・

いいんだけどさ、なんか読んでるうちにちょっと腹がたったりして・・という感想をもらす女友だちもいたけれど、しかたないよ、恋愛の神様は、いつでも勝ったほうの味方だもん。

それにしても、神蔵美子はこのあとどんな写真を撮るのだろう。奇しくも写真集の中に登場する、森村泰昌やアラーキーと同じく、全身写真家、全身アーチストとしての道を選択してしまった彼女は。これはこれで、たいへんな道なんだが。写真に添えられた文章の切れには、眼をみはるものがあり、文筆への傾斜も予想されるが、それもよし。

しかし彼女は気がついているだろうか、純愛や結婚という帰結で眼くらましをうってはいるが、彼女自身のダークサイド、この写真集の隠れテーマがセクシャリティにあることを。今にして思えば写真集「ナチュリタ」(1990)の静謐さのあと、彼女が描いてきた軌跡には、いつもこの主題がちらちらしていた気がする。

「私には、自分自身の女性性と他の人の女性性とはどこかでつながっている ように感じられる。だから撮影を通して他の女性性を知ることは、同時に 自らの女性性について改めて考えをめぐらせる作業なのだ。」*2

性産業で働く女性たちの等身大のヌードを撮ったシリーズに寄せた作家の言葉である。ここでは彼女はフェミニティ、という term を使っている。確かにこの用語は著名人に女装させた写真集「たまゆら」においても有効だけれど、セクシャリティと言い切ったほうが、今後の彼女の方向性がより先鋭的になるのではないか。(ディルドをくわえてSM嬢とのプレイを演じるショットをわざわざ選んでいるのを見てわたしは確信したね。)

かつてナン・ゴールディンの「The Ballad of Sexual Dependency」を日本に比較的早く紹介したとき、わたしは sexuality にわざわざ<志>の字をあてて、性的志向と訳したものである。まだジェンダーが耳新しく、カミング・アウトという言葉がおずおずと口にされだした頃の話。いまなら、シンプルに「どんなセックスをしたいか」って訳すかもしれない。う〜ん、でもここにこう書いてみても、まだまだ口にしづらいな。自分が「どのようにありたいか」「どのように生きたいのか」と根っこでつながっている重要なことなのに。

セクシャリティ。この深くて暗い川。へたに手をだすと溺れかねない。でもそれはあるんだよ。

*1 「たまもの」 神蔵美子 筑摩書房刊
神蔵美子写真展「たまもの」2は2002年6月14日から27日まで、LA CAMERAにて開催。
*2 笠原美智子が1998年にキュレーションした「ラブズ・ボディ ─ヌード写真の近現代」
(東京都写真美術館)のカタログより。