今年何十回めかの絶望的気分になすすべもなく五反田駅 プラットフォームに突っ立つわれ。このわれって奴こそ落ち込 みの張本人だが、わかっていても、どうにもならんことがある わけで。この年まで生き延びてきたからには自分を立て直す 術を知らぬでもないが、目は虚ろに日本一安いキャバレーの 字をなぞり、MDにおとしたニトロ、お助け音楽をオンさせ周り の迷惑省みず、ボリューム17にてまるでティーンエージャー かよ。Godspeed you black emperor ! を杖に自分をどこかへ 連れ去る列車を待つも、街のあちこちにわれの分身が青い 火柱と化して突っ立つ幻に見入っている。 "Lift Yr. Skinny Fists Like Antennas to Heaven ! " 世界じゅうの泣いてる 子どもを抱きしめたい。でも自分のなかの、泣いてる子ども すら抱きしめられない、われ。

そうなのだ。だから 「Tokyo Nobody」 を見てもさして心も 動かなかった。ほらっ、誰もいないでしょって本当にいない 風景を見せられてもね。いるのに感じてない自分の内なる 心象のほうがよほど怖い。それでも写真集で見たときよりは よかった。東京都写真美術館の、もう終わっちゃったけど、 「風景論」の話だよ。プリントの濡れた色合いが綺麗でした。 でもサイズあれでよかったのかな。一番ふさわしい見せ方 ではなかったように思う。ジェフ・ウォールばりのライト・ボッ クスに仕立てたらどうだったかな。国境なき写真家旅団を 名のる平野正樹のその志やよし! でもサラエボの弾痕、 東ティモールの窓、タスマニアの巨木、ときたとき作家の 内にあるはずの美的一貫性が感じ取れず、説得力を欠い てたなあ。鈴木理策の「KUMANO」にいたっては民俗学を なめとるんかいと、ちゃぶ台をひっくり返したい気分。(そこ にあればだけど。)何も写さないことを目指すなら、あざとく 熊野とタイトルするのもやめたら、と思うのだが。結局、キュ レーター笠原美智子の、言わねばならない時勢に、言わね ばならないことをまっすぐに伝えようとした、真摯な姿勢だけ は確かに受け取ったのだけれど。

写真家は今、どのような表現をしたらいいのだろう。
巨大な力に組みせず、 単純化されたわかりやすさに疑問を抱かざるを得ない表現者たる写真家は?
「常套的な言辞や単純化と闘い」、
「複合的で曖昧な現実を視よ!」

(「風景論」カタログより)

その通りなのだ。でも扱われた作家たちのは、詰めの甘さ ゆえの曖昧さであって、想像力をかきたてる謎はなかった。 私には。

ああ、でも私にとって謎多きひと、鈴木理策! 毎回期待し ては裏切られてきたが、東京国立近代美術館で開催中の 「サイト─場所と光景」展(8月4日まで)のサント=ヴィクト ワール山はいい。セザンヌへの思い入れを差し引いたとし ても。セザンヌの絵と同じ波動、鮮やかなグリーンがあり、 さらにセザンヌにはない、白く輝く光がまとわりつくような 風景! 作品の構成、プリントのサイズも確かにこれだよ と揺るぎない。特筆すべきは、作品が発光しているような 印象を与える室内のライティング。これは明らかに意図され ている。うって変わってプレーンな光の下、枚数を見せる ことに徹した港千尋の「基地と聖地」とのめりはりのつけ方 を見れば明らかだ。(この見せ方は港の作品の本質を突い ていると思う。写真を用いた比較文化論的検証の鮮やかな 手口。この方面での写真表現にはまだまだ魅力ある領土 がある。)キュレーター増田玲が感嘆すべき緻密さと繊細さ で会場をコントロールしていることが伝わってきて、私には それが一等、興味深かった。

この展覧会にかかわるもうひとつの要素としてのサイト、
それは美術館の展示室というサイトである。
それが美術という制度を支えるものとなっている・・は
むろん承知の上で、展示室という場所に、写真を見る
場所としての可能性を、肯定的に見出していくことは できないだろうか。

(「サイト─場所と光景」カタログより)

おお、浮上してきたか、わが魂。
口笛のひとつも吹いてみるか。