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いつも思うことに、アーチストはたしかにいろいろ 戦略もたて、考えているんだろうけど、なんかつく
らずにおれない、つくらないでは生きのびれない ような切迫した思いは、たぶん戦略とは別
のとこ ろからつきあげてくるのではないだろうか。その 思いが真摯であればあるほど、作家自身が予期
せぬものが作品にたちあらわれ、時代のひと足先 を読んでしまうことがある。ネイティブ・アメリカンの
ドリームキャッチャーみたく、無意識のうちに何かを 捕らえてしまうのだ。
だからアーチストは本質的には政治的な存在だと わたしは考えている。この国では政治的であると
みなに認めてもらうにはNPOの聖者かデモの皆勤 者でないとだめなように思いこまれているが、ひと
つのイメージにこめられたメッセージが人を動かし 励ます力があること、その能力を自身も有している
ことを、日本のアーチストがもっと自覚してくれたら と思います。毎日どうやって食べるか、次の作品の
ことや他人の評価で頭がいっぱい、<政治>なん てとてもとてもかもしれないけれど、政治的である
とは精神の営みの延長線上にあることで、実は すぐそばに佇んでいる。
最近、といっても三月初旬に公演されたパフォーマン ス集団時々自動の新作「Lightology」で、わたしは、
ヴィジュアルをつかった、ヴィジュアルにしかできない やりかたで放たれたピュアにポリティカルなメッセージ
を見たように思う。
ロバート・ウィルソンにメレディス・モンクをたして、ピナ・ バウシュをかけ、ダム・タイプでわったような・・・という
ような説明では、演劇好きでない人にはなんの意味も 持たないし、そういうことからすると真にオリジナルなも
のはなかったかもしれないが、それでもこのパフォーマ ンスは魅力にあふれ、世界のショーケースで堂々わたり
あえる水準だった。音楽、パフォーマンス、ダンス、美術、 ファッション、すべてが融合した、短いシーン(アイデア・
スケッチと言うべきか)の集合体のような芝居なのだが、 例えば映像に絞って言うなら、舞台上にジオラマを数体
作成し(この頃、現代美術やビデオアートの作品でやはり ジオラマを使った作品を続けて見た。ジオラマに対する
なにか共時性を予感するが、それはまた別の話。)、 ビデオカメラを携えたクルーたちが黒子のようにライティン
グ、送風、着火(!)などの特殊効果を施しながらミニ チュアワールドを撮影するライブ映像をスクリーンで上映し
つつ、朗読&コーラスが詠じられるかと思えば、非常灯 さえ消した暗闇のなかで(タレルにも同じコンセプトの作
品があるが、残像の光が脳内で知覚され、ないはずの 光を感じながら)、モンゴルの草原の生音と、そこでの
体験を叙述する視覚障害者の語りを聞かされたり。
こうしたリリカルで鋭角的なアイデアがかなりの密度で 展開されるのを楽しみながらも、わたしのようなすれっか
らしの演劇ファンともなると、で、最後はどう落とすつもり なのと、意地悪く待機するものだが、最後はこんなふう
だった。
舞台の天井近くまで組まれたやぐらから、サマードレスの 女性やシャツ姿の青年たちが次々とジャンピングする。
下にはむろんマットがあるのだろうが、それは仕切られて 見えず、かわりにスクリーンでシンプルなアニメーションが
続きをやる。つまり、ビルから落ちた人がた(非常口を示す 図像のあれ、を思い浮かべていただきたい。ドアの向こうか
ら差し込む光の世界に駆け込む人がたのイメージが、この 芝居のそもそもの起点であるとか。)が手足を宙でいろんな
ヴァリエーションでばたつかせたあと、地面に叩きつけられ 黒い血を流す。この繰り返しに、鑑賞者はやはり9.11を
想起せずにはおれず、なんとも重苦しい心地になる。
だが、ある瞬間から人がた達はなんとも言えない動きで くいっと態勢を整え、地面
に叩きつけられる寸前に飛翔する ようになる。羽がはえるような、天使的な力がはたらくわけ
でない。自らの力で、クククィっと。そして、飛翔。
おそらくそのモーションを言葉では完全に伝えらない。なぜ なら、それこそまさしくヴィジュアル化されたメッセージ、
ヴィジュアルでしか伝えられないものだったから。それは 鑑賞者のこころを不思議に明るくした。そしてまったく脈絡
のない一連のちりぢりのパフォーマンスを脈絡のないまま 見事にフィニッシュさせたのである。
わたしの考える、アーチストが政治的であることとは、こんな ことから始まる。
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