感情教育。言わずと知れたギュスターヴ・フローベールの小説である。少しまえ、島田雅彦と中山可穂も同じ題名の小説を発表していたな。まあ、そう感情的になるなよと、<感情>はマイナスのイメージで扱われることが多い。情操教育はあっても感情教育は大抵のひとは受けることなく今日まできているはずだ。人間の脳の進化をみても、もっとも古くから、ひとと共にあるものであるのに、せいぜい恋愛で自主練するのみ。はたしてそれも、どれだけのひとが恋愛から学べていることか。

アラン・コルバンというフランスの歴史家が音や匂いといった、記録には残りにくい<感性>を鍵に、ある特定の時代をいきいきと分析する手法をあみだしたが、写 真もまた(せいぜい160年ほど前からに限定されるとはいえ)歴史を動かしてきた時代感情のひだを探るかっこうの装置なのである。このことに早くから気づきをもっていたのは伊藤俊治だ。初期の代表作『裸体の森へ』の副題には、感情のイコノグラフィーとある。『20世紀写 真史』でも彼は頻繁に<感情>という用語を使う。わたしが編集者なら、彼にはもう一度、『20世紀感情史』というタイトルで書いてもらいたい。そこでは、アフガニスタンやパレスチナで行われている非道の解明さえ、可能かもしれないと思う。

写真誌で展評など書いていたころは、ぎりぎりまで、できうる限りの作品を見て、批評を支える自分なりの裏打ちに必要な調べにも最善をつくしていた。展評を書かない今は、作品のおいしいとこだけを、ずいと、もぎとって味わう。人間講座「超・美術鑑賞術」の森村泰昌ふうに言えば「わたしのここ(注/胸のあたりをおさえながら)がザワザワする」のであれば、作品に多少の欠点があろうと、気にしない。ワタシのガワに作品を引き寄せて見ているわけですね、これは。正直いって楽しい。写 真を見ていると自分の感情がシェイクされ、やがてとんとんと整えられたように静かになるが、下に沈殿したものの上にうっすら上澄みができる、その上澄みをこころゆくまで吟味する、そんなふうな写 真の見方をしている。