.
 exhibition
 about pg
 
 

086/日本カメラ 1月号 NC Journal EXHIBITION テキスト:土屋誠一
私写真にならなかった「彼女」 西村康写真展「彼女のタイトル」 11月27日〜12月3日 新宿ニコンサロン

 
被写体の女性は、写真家のかつての恋人であるという。アダルトヴィデオの女優を生業にしていたという彼女は、写真のなかでは同一人物とは思えないほど、本当によく表情を変える。写真家との極めて親密な関係を表すような表情の「彼女」、一方、そういった親密さからは遥かに遠い、モニターに映されたヴィデオのなかの演者としての「彼女」。観る者は、広い振幅の直中において、「彼女」に出会うことになる。
この写真を、私写真として理解してはならない。被写体の体に刻まれた、自傷によるであろう傷跡は、写真家である「私」が彼女の私的領域まで深く侵入して行っていることを示すかも知れない。けれども、固有名をもった彼女という存在の輪郭の確実さは、様々な局面において極めて異なった表情を浮かべる「彼女」自身のその表情によって裏切られる。残酷なことに、どれが本当の「彼女」であるのかは、彼女をいかによく知っている者であろうと、そしてたぶん彼女自身でさえも、誰にも知り得ないのだ。しかしこの残酷さは、彼女だけに限った問題ではないはずだ。本当の「彼女」の輪郭すら不確実であるならば、「私」もまた、一体どこに私が私であることの保証を求めることができよう?
彼女を撮影することは、カメラによって彼女にタイトルを付すことと解せられるだろう。けれども写真は彼女の固有名を同定できず、無数の「彼女」という人称代名詞を旋回し続ける。この写真はいわば、命名という試みが不断に失敗し続けることのドキュメントであるが、その失敗は批判されるべき類のものではない。写真が、「彼女」であることの不確かさを炙り出し、自己が自己であることの自明性を揺るがすならば、それは決して悪いことではないからだ。
 
<< 報道記録:メニュー
 
| site map | access | contact |
Copyright (c) 2001- photographers' gallery, All Rights Reserved.