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080/アサヒカメラ 4月号 写真展を歩く 今月の展覧会
Pick Up テキスト:楠本亜紀
王子直紀写真展「Cult
of Personality」 1月30日(火)〜2月11日(日) photographers' gallery |
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スナップ写真について何かを語ることは意外と難しいものだ。
スナップショットはもともと安価で簡易になったカメラを用いて、プロの写真家ではない人たちが、旅行や家族行事などを記念に写した写真のことを指していた。世の中には数多くのアマチュアに撮られたスナップショットがあふれており、アルバムのなかにストックされているだろう。そこには写真の背後の時間も含め個人的なエピソードが詰まっており、アルバムをひもときながらたくさんの物語が語られる。そうした写真に写された対象について何かを語ることはそれほど難しいことではない。
それに対し、作品として発表されるスナップショットは、何かを記念に残すというよりは、どちらかといえばカメラのパチリ(=スナップ)という一撃(=ショット)によって、時空間を切断し、獲物を捕獲するといった要素が強い。つまり、家庭や旅行先などでとられる記念写真との差異化がそこで図られており、いかにうまくその獲物を仕留めたか、いかにうまい構図や表情、光の加減を、ある一瞬のもとにとらえられたかという一点傑作主義的な判断が、評価の基準になることが多い。写真の良し悪しが問われるのはこの点においてであり、そうでもなければアマチュアの写真とどう違うのか、判断は難しい。また、評価の基準から少しずれた一見ヘタのように見えるものがさらに通好みなものとみなされる現象は、どんな芸事にも通じることだろう。
その一方で、写真の本質はカメラという機械を用い、光学的、化学的、またはデジタル的なプロセスを経て現実が像として定着されることにあり、写真家の作家性や主体性を確たるものとして保証するような、構図だの、写真の良し悪しなどは、あまり意味がないとする考えもある。そうした限定的なものよりも、作家の意図を超えたカメラの「機械性」に期待をかけたほうが実りが多く、より多くのリアリティーがあるとする考え方だ。実はこうしたカメラの特性はアマチュア写真では頻出し、通常は撮りそこないのボツとして無造作に除けられていたりするものだ。だから時にアマチュア写真は宝の山に変身する。
スナップショットの歴史は、このような記録的、美学的、機械的な要素のほか、私性、ドキュメント性、瞬間性など、さまざまな分野への比重の偏りや振幅をみせ、紆余曲折を経ながら続いてきた。写真家としてスナップショットに取り組もうとするものは、必然的にこうしたものを自らの実践のなかで確認せざるをえないだろう。それを踏まえながら、今、写真家としていかに写真を撮ることが現代性をもちうるかということが、問われることになる。
王子が昨年一年かけて、毎月の連続展として行った「XXXX STREET
SNAPSHOTS」シリーズは、スナップショットにおいて今何が可能かといったことを、模索する試みであった。王子は「もっとも平凡なスナップショット」を撮影、選択することを選んでいる。念頭にあるのは、レンズの前の対象を何の優劣もつけず(つまり凡庸に)捕捉するカメラの目だろう。人間の顔が半分に切れていようが、電柱が中心の位置を占めていようが、水平線が傾いていようが、ボケていようが、そうしたことはどうでもいい。というよりは、そうした写真を積極的に提示することが試みられている。
だが、こうした試みは60年代末〜70年代初の、中平卓馬や森山大道らに代表されるプロヴォークの写真群を思い出させ、目新しいというよりは、懐古的な感じも受ける。しかし、ブレボケは結局のところスタイルでしかなかったと、揶揄的に総括されたプロヴォークの帰趨を考えると、もう一度その意義を問い直すことは意味のある作業かもしれない。それに、その時代には、カメラによってとらえられた「ありのままの世界」に対する期待も高かったが、今ではそれも幻想にすぎないというのが常識だろう。そうした現代において、カメラ的な視線を戦略として採用することによって浮かび上がるものは、いったい何であるというのか。
王子はどうやらそこに「人間」を見つけたようだ。今年から展開されるシリーズは人間を中心として構成され、「人間が人間を見るということ、レンズを向けるという欲求が制限、自主規制されつつある状況への抵抗の始まり」でもあるという。つけられたタイトルは「Cult
of Personality」、直訳すると「個性崇拝」といったところか。街中のスナップショットがプライバシーの問題で難しくなる一方で、監視カメラは白昼堂々とすべての人を無差別に撮影し続けているといった状況への疑義がそこには感じられる。
そのタイトルには陳腐な性急さも感じられなくはないが、スナップショットを撮るということ自体が、今ではもう政治性と社会性ぬきには語り得ないということを身に沁みて感じている、スナップシューターならではの感覚として受けとめておこう。そのラジカルな身振りがどこまで写真として表出され得るか。今後の展開に期待したい。 |
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