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072/美術手帖 1月号 Gallery Reviews (テキスト:河野晴子)
「雪ダルマ」横湯久美 photographers' gallery |
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ちらほらと喪中の挨拶状が届く頃になった。今年、何人の人がいくつの死に直面しただろうかと、意味のないことを考えたりする。
横湯久美は5年前に亡くなった祖母の姿を今でも追い求めている。かつて住んでいた札幌の家で、窓越しに雪を眺める祖母の写真が一枚。「雪だるまが見たい」という祖母の願いを、だるま型の鑞細工を窓に貼ったり、実際に雪だるまをつくってあげることで叶えようとするのだが、いつも「違う」と愚痴をこぼされた。
この一枚以外に祖母の姿や、家の内部をみることはできない。人手に渡ったその借家を、今年の冬は外から撮るしかなかったからだ。デイライト・フィルムを色補正なしで使用するため、新雪には周辺の新興住宅地の電灯が写り込み、もはや踏み入ることのできない領域を示唆するかのように、ひんやりとした青い光を放っている。時が経ち、祖母はいない。雪がまた、降っただけのことだ。
「真冬のお盆だった」と今回の札幌への帰還を一種の儀礼として位置づける。どっぷりと過去に浸るため、外界からの情報を遮断しながら雪を撮り続けたが、のちに彼女はその間に起きた世界の出来事をこと細かに列記する。たまった新聞から拾い集めたヘッドラインと、祖母の存在の証しを模索した間の積雪量などを記録した彼女個人の日誌が、同じ紙の上で交わることなく併記されている。それでも世界は動き続けるという、残された誰もが直面する乾いた事実を提示し、鑑賞者に湿った感傷を残さない。
横湯の作品は、祖母と孫娘の近しい結びつきというよりは、介護という苛立ちや悲しみを纏う関係であったことを知った上で対峙すべきものだが、それがわかったところで二人の関係に入り込む余地や必要性は見つからない。ただ、失くしたもの、不可視のもの、できなかったことの片鱗だけでも蘇生させようとする、かくも不毛な探究が美術にも人生にも通底していることが確認できる。そういった抗いがたい欲求を受け止める手だてが含むほんの少しの可能性に触れた気がして、ささやかな安堵を得た。 |
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