伊勢功治
photographers' galleryの活動に対する授賞は、写真の会が持っている、作家に対してではなくあらゆる写 真的行為に注目し、評価するという発足当初からの理念が形になってあらわれたものである。写真家自身がリスクを背負いながら、自分達の作品発表の場を持ち、自主運営するという「インディペンデント」な活動が賞の対象になった。その注目度の高さは、反対に日本における写 真状況の問題でもあると浅野文宏は指摘する。photographers' galleryは牛島麻記子、王子直紀、尾仲浩二、北島敬三、蔵真墨、小出直穂子、笹岡啓子、設楽葉子、渋谷美智子、都築綾、中尾曜子、中村綾緒、楢橋朝子、元田敬三、本山周平、笠友紀(50音順、2002年5月現在)によって運営されている。見てわかるとおりベテランと若手が混在しているところも注目すべき点の一つだろう。自主運営ギャラリーは、ワークショップ写 真学校の森山大道教室の卒業生を中心として1976年に設立された「CAMP」、同時期の東松照明教室のメンバーによる「PUT」、東京綜合写 真専門学校や造形大学の学生や卒業生たちを中心にして生まれた「プリズム」といった新宿周辺に相次いでオープンしたギャラリーに始まる。それに87年に瀬戸正人らによる「プレイスM」。同じく80年代末の森山の個人ギャラリー「PHOTO DAIDO' room 801」や「mole」の前身のギャラリー「FROG」などの設立の動きを経て90年に楢橋がたち上げた「03FOTOS」、そして96年の関らによる「ガレリアQ」の名をあげることが出来る。こうした流れの上にphotographers' galleryが誕生したといってもよいだろう。「CAMP」の中心メンバーの一人であった北島敬三が参加している事も決して偶然ではないだろう。かつてのように運動体としての急進的な活動を前面に出すのではなく、各々の写真家の主体性と個性を第一にしながらも、高い意識の中で発表、展示を続けていくことの中での可能性に今後も注目していきたいと思う。
(50音順)
*以下のテキストはphotographers' galleryに関する箇所のみ、割愛して掲載させていただきます。ご了承下さい。
■浅野文宏
「photographers' gallery」は、作品性もキャリアも思想も、そして経済的状況も異なる作家たちの共同出資と合議によって運営され、しかも質の高い展示を継続して行ってきた。この実績は従前の私設・自主ギャラリーとは一線を画するものだと思う。と同時に、「自らリスクを背負って発表・活動の場を作る」という、言葉にすれば作家として当然のように思える行為が大きなトピックになったという事態は、写真家やメディアの在り方に対する問題提起でもあるだろう。 写真家として、他のメディアの解釈…印刷物や第三者の意図が介入する展示…を経ないで作品を発表したいというのは極めてまっとうな欲求であろうし、それが可能な発表形態は、自ら制作したプリントを自らのディレクションで見せることしかしない。しかしそれだけでは「独りよがり」になってしまう危険がある。その点、「photographers' gallery」では、参加メンバーの多様性とその運営形態によって自作に対する自発的な検証が行われ、自己満足に陥らないフレッシュな展示が継続されているのではないだろうか。 対峙すべき「他者」が存在しない、というかそういうことを考えてすらいない写 真と、それを利用するメディアが溢れてきた中、「photographers' gallery」の活動には、自ら写真によって他者と対峙しようという…繰り返しになるが、本当はそれが当然なのだ…強い意志が感じられた。
■ 生井英考
「写真の会」賞の当初からの目的のひとつに、あらゆる写真的行為を選考の対象とし、それによって「写真」なるものの定義を変えるということがあった。写真はもともと表象の限界を超えるものであり、それがなければ写真家たちの表現も痩せて乏しいものにならざるを得ない。そんなことから写真の会賞は過去にも製版技術や出版などにかかわる方々を授賞者に選んできたのだが、ちかごろの写 真界の状態はこうした考え方をよりいっそう有為なものとするところがあるらしい。選考会の席でもそれをうかがわせる意見を再々耳にした。ギャラリーの集団的な活動、「記録に徹する」ということばに新たな尊厳を加える写真とその基盤となった社会的営為、そして写真家という職業に改めて直視を向けさせた生涯。とはいえ、もうそろそろこうした選考の珍しさを強調しなければならない状態も終わってしかるべきだろう。受賞者の方々には心から敬意を表したい。
■ 白仁田剛
「photographers' gallery」の一連の活動が評価された。写真を発表したいメンバーによって構成されるギャラリーとして、地道に活動を続けている。個展も精力的に行われ、インターネットによる展開もあり、また、少々記憶が定かでないが、別 の場所で展覧の機会を公募展によって得た者もいるなど、実績も積み重ねつつある中での受賞である。今回の選に漏れてしまったが、中藤正樹氏による「ギャラリーニエプス」など、発表する者自身による場が生まれつつあり、ひところ言われた自主ギャラリーとはまた違った場が形成されていくのだろうか。
■ 菅原朝也
今年度の写真界の活動をすべてフォローしていたわけではないが、木村伊兵衛賞を受賞した松江泰治氏の写真集の発表はエポックだったと思う。もう一つ、楢橋朝子氏の活動は常に注目すべき内容だったし、今後もこの人から目が離せないと思うことを最初に書き記しておく。選考会ではほとんど名が出なかったのは、選考委員の関心が今年は楢橋氏個人の活動からは逸れていたからだと思う。氏の活動は、たとえば受賞した「photographers' gallery」の活動に包摂されたりしていた。考えてみれば氏の名前は、ここ数年の選考会で出ないことがなかった。今日の、「写真」が置かれた諸状況の中で、それほどの活動をし続けている氏には率直に敬意を表すべきだと考える。 (中略) 「photographers' gallery」の活動については、その背景も含めて議論の対象となった。むろんこの一年の展示全体の質の高さが評価の対象となったのだが、将来もこの水準を維持し発展していただきたいという思いも込められている。ギャラリーは、参加している写真家が会費を拠出し、その会費で維持し、作品を展示するというやり方で運営されているという。選考を進めながら、むしろ関心はそちらへ向かった。 最初のほうで「今日の、『写真』が置かれた諸状況」と書いたが、構造的な経済不況にむき出しで写真もさらされていると感じる。moleの休止は象徴的な出来事だったと思う。この際、社会の(もっと言えば、資本の)写真への無理解を嘆いていも仕方ない。ただ「与えられる」写真の場が今後も縮小されていく一方であろうことは覚悟しなければならないだろう。「photographers' gallery」の自主運営というやり方は、その意味できわめて理に適っている、と思う。
■ 鈴木一誌
photographers' galleryは、多くのことを考えさせてくれる。photographers' galleryに先行して、もちろんプレイスMやガレリアQのいまでも新鮮な活動がある。だが、プレイスMやガレリアQと、photographers' galleryのあいだには決定的な差異があるように思える。photographers' galleryは、その活動のなかに評論的であることを含んでいるのだ、と思う。 選考会後しばらくして、印刷物『photographers' gallery press no.1』を手にとることができた。そのページネーションされた印刷物は、ギャラリーでの展覧の記録であるばかりではなく、作品発表の媒体であり、評論がいきかう場でもあった。ギャラリーでの展覧記録すら、作者の意図なる文章とともに写 真が載るならば、解釈を同伴していることになり、すでに評論的である。『photographers' gallery press』の発行も活動のうちなのだから、photographers' galleryの担い手は、作者=送り手、観客や読者=受け手との役割分担を否認し、送り手でもあり受け手でもあることを引き受けたと宣言していると感じる。もはや、評論的しごとを評論家にまかせておけない、との危機意識が伝わってくる。 映画、ことに若い監督の作品を見ながら、評論的だと思うことが多い。こうすればこう書かれるにちがいない、と評論を先取りしてしまう。美術では、すでにあらゆる作品が評論的であるようだ。解釈をエンジンにしてモノが表現に浮上するのが美術の一手法だとしたら、その仕組みのなかでは、モノが「ゴミ」のようであるほうが、モノから表現への昇華がよりドラマチックになることになる。 写真はその表現のうちに、批評性を含もうとしてきた。表現はかなず批評的であろうとすることと、多くの表現があらかじめ評論的であることとの関係に考えるべき点があるようだ。写 真家は、自身を表現の送り手をして存立させようとする者であり、当たり前だが、その送り手も、生活レベルでは一介の消費者でしかない。生活レベルでは一介の消費者でしかない送り手が生み出す表現に、消費者であることがどのように反映するのか、あるいはどのように反映させるべきか、このような問題は立つのではないか。 ここで、やや図式的にこの事態を三つの態度に分けてみる。
消費者でしかない送り手が生み出す表現は必然的に消費者的である、とする、送り手と消費者の直結論がまず第一。 消費者であるとは、受け手でもあるのだから、受け手であることに自覚的であることによって、消費者であることに意識的であろうとする、評論家的消費者が第二。消費者であることを評論によって統御しようとする態度、と言ってもよいだろう。 さいごは、消費者である自分から意識的には身を引き剥がし、送り手に徹しようとする作家的立場。 菅原朝也が端的に引用する、「危なっかしい薄い氷の上に浮遊する写真の存在もまた、いかなる将来を生きる担保も用意されていないこの消費時代の鏡(写真)なのだ」(藤原新也「第27回木村伊兵衛賞受賞者発表『選考を終えて』」[アサヒカメラ]2002年4月号)ということばは、はじめの「送り手と消費者の直結論」であるように読める。「ニューウェイブ」の「セルフポートレート」には、消費者であることは存分に写っていた。photographers' galleryの活動は、「消費者であることを評論によって統御しようとする態度」であるようにわたしには思え、プレイスMやガレリアQの頑固なすがたは、「送り手に徹しようとする作家的立場」だと感じる。自分たちがやってきたことを記録することへのプレイスMやガレリアQの確信的な冷淡さからはそう伝わってくる。
■ 深川雅文
photographers' galleryの活動 ご存知のかたもいらっしゃるかもしれないが、僕はこのギャラリーのホームページで写真情報BBS「photo-eyes」に論評や情報などを書き込んでいるので、他の選考メンバーの方々から同ギャラリーの活動が選考の俎上に上げられても、その活動への投票はさしあたり差し控えた。複数のメンバーから言及がなされ、インディペンダントギャラリーの新たな形として評価され選考で順調に得票を集めたのは、嬉しい驚きであった。冒頭に触れた古屋誠一氏も、「海外から見ていても際立った活動だった」と語っていた。「層の厚さ」は、このギャラリー自身にも当てはまるだろう。若きメンバーたちと北島敬三に加え、楢橋朝子、尾仲浩二が参加(メンバー数16名)。そしてメンバーではないが石内都が特別 企画展をこのギャラリーで実施したこともある。世代を越えた写真行為がここで進行中なのだ。これは、たしかに新たな現象ではないか。
■ 福島義雄
「photographers' gallery」は若い人々が集う、これからの自主ギャラリ−だが、メーカー系のギャラリーでの発表が主流の日本の現状にあって、自分たちの写真を自由に展示しようという若々しい試みはますます続けてほしい。「ガレリアQ」での活動のなかで、関美比古氏の作品が醸し出されていったように、「photographers' gallery」を拠点に飛翔してほしい。期待による授賞である。
|