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──では写真の外部の話を?
その外部が「フレームの外」を意味するのでないのなら。というのも、フレームにはどうしたってその内部があり、また外部がある。写真のフレームに切り取られた「外部」とは、つまり写真の内部の反措定にすぎないわけで、それを「写真」の外部と言うことはできないのだから。
──ウチの外にソトがあるとでも? ソトの外にウチがあるのでは?
ならば端的に、写真にはフレームが無いと言ってみよう。あるいは写真のフレームにはウチが無いと。
──ウチが無い以上、もはやフレーム(枠)ではなく、ただのプレーン(面)だと? あるいは文字通りに、面(つら)=顔であると? だがソトとの境界があるのでは。その境界をフレームと呼んでみてはどうだろう。
そういうのを区分けと称し、tri と称する。「テレ・トリローグtélé-trilogue」とは、来歴(télé)の区分け(tri)と編纂(logue)でもあったわけだ。ところで、境界は外部に属する。つまり、外部と、内部なき境界(=漠たるボーダー/外部)とからなる平面にこそ写真は訪れる。
──その時、ひとは写真を撮る/見ることができるだろうか。
もちろん「ひと」は写真を撮ることができない。だがその前に、「見る」ことに関して。写真が知覚可能だとしたら、それは来歴を抹消することで、すべてを(ビルケナウの暗い部屋、さえも)その平面上に現前化するからだろう。写真がスコトマータ(盲点)をあらわにするのは、この無機的=無頭的な統合による。
──では写真《の》スコトマータは? 抹消される来歴=速度差=タイム・ラグは? われわれは、写真に見られずに写真を見ているつもりでいるが、この非対称性はどうだ。
さきに私たちは写真が「訪れる」と言った。だが目庇(まびさし)の奥に誘われているのは、むしろわれわれの方ではないか。そこでひとは亡霊化されよう。つまり、漠たるボーダー=内部なき境界=顔に。おそらくは、ある痛痒とともに。さあ、目を伏せたり逃
げだしたりせずに、学ぶことを学び、なんとしても学ぶのだ、そのことに。
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